北方領土の日
★ 平成20年2月7日(木) 北方領土の日 |
1855年の今日、現在の静岡県下田市において日ロ通好条約が調印され、両国の国境を択捉島と得撫(ウルップ)島の間と定め、択捉島・国後島・色丹島及び歯舞群島は日本の領土として確定したので、今日を北方領土の日として定めたようです。 とは言え、そもそも北方領土の日を定めた事自体が茶番で、日本政府に北方領土問題を解決する意志が無いというのが正解です。 第2次大戦末期の1945年2月、ヤルタ会談の席上で米国はソ連に対し、千島列島の領有を認める代わりに対日戦争に参戦するように要請します。 そして1951年のサンフランシスコ講和条約にて、千島列島はソ連領への編入が容認されましたが、ソ連はこの条約に調印していません。 ちなみにこの時に日本は、沖縄や小笠原諸島を始めとした周辺の島々の領有権を失っています。当然の事ながら、竹島や尖閣諸島の領有権も放棄しています。 また日本はこの条約以前から歯舞・色丹は日本に近く、千島列島に含まれないと米国に対して主張していましたが、米国は自国がソ連に持ちかけた話だけに、日本の主張を聞き入れませんでした。 それから4年後の1955年、いわゆる東西冷戦が激化し、ソ連は周辺諸国との関係強化のため、日本に対して歯舞・色丹を日本に返す変わりに平和条約の締結を提案してきました。 翌年7月、日本はモスクワに代表団を派遣し、日ソ平和条約の締結に向け交渉を開始しますが、翌8月に米国のダレス国務長官が重光外相に対し、国後・択捉を諦めるのなら、米国も日本に沖縄を返さないと圧力をかけて来ます。 これに対しては鈴木宗男氏が外務省に対して質問状を出しています。 これにより日本が2島返還から4島返還に立場を変えたため、未だに日ソ平和条約は締結されていませんが、ロシアとなった今でも旧ソ連の態度は変わっていないようです。 それでは何が北方領土問題を難しくさせているのか? 1956年当時は、米国の西側敵視の政策に日本も巻き込まれ、日本とソ連の間に北方領土問題としての東西冷戦の境界線がありましたが、ソ連崩壊後は米国の態度も変わり、G8に代表されるように米ソは良好な関係を築いています。 しかし、東西冷戦の元、米国の傘の下で外交は全て米国任せ、軍事も米軍の傘の下で過ごして来た日本にとって、東西冷戦の終結は米国の傘が外される事を意味し、独自の外交の歴史が浅く、更にそれで失敗をしてるので、何としても米国を日本に留めて置くために、中国や韓国との歴史問題や、北朝鮮の拉致問題、そして台湾・韓国やロシアとの領土問題を未解決のまま放置しているのが現実です。 周辺諸国との緊張を理由に、日米安保条約を引き延ばせますからね。 事実、2004年にはロシアのプーチン大統領から小泉首相宛てに、モスクワの戦勝記念会合への招待状が届きましたが、小泉はこの返事を先延ばしした挙句に断りました。 これとは別に、プーチン大統領が日本を訪問し、北方領土問題解決に向けた首脳会談も打診されましたが、小泉はこれも断っています。 ロシア側の意向は、1955年の時点で言っていた歯舞・色丹返還の引き換えに日本と平和条約を結び、それにより石油や天然ガスなどの資源を買ってもらい、更には世界遺産に登録された知床と全く同じ自然がある千島列島に観光客を誘致したいと言う事で、もしこれが実現されれば、一番潤うのは北海道なので、北海道選出の鈴木宗男氏が必死になっていたのも納得出来ますが、対米従属主義を崩される事を嫌う政府は、彼を失職させてしまいました。 結局は対米従属主義と言う政策の下に領土問題があるだけで、拉致問題も含めて国民が騒げば騒ぐほど政府の思惑にはまってしまうと言う構図になっています。 北方領土の日制定自体が、国民の目をそらさせる政策なのです。 |
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